福王寺一彦の静寂なる絵画   金原宏行

 父福王寺法林とともに早くからアジアの山々を訪ね、ネパール地方の風光を愛し、その生活の大半を風景画の探求に捧げている画家、それが福王寺一彦である。一彦は、幼い頃からアトリエで父法林が絵を描き、母が岩絵の具を溶く姿を見て育っている。小学校5、6年頃には既に画家の生活や日本画の世界を見知ったようである。そんな環境で育っている彼ならではの着想と色彩感覚により、ネパールなどの風景を中心に親しく嘱目した風景を直裁に描き、どの作品にも溢れるような深い詩情が認められる。
 ルネサンス以前のフレスコ画、テンペラ画の空間処理に、日本画の材料や描法との共通点があることを認めた上で、オーソドックスな日本画の技術に習熟した彼ならではの発想で作品を制作している。才能を紡ぎ出すメチエ(技術)を持つカラーリストの色彩の輝きは光を増して止まるところがない。芳醇な色彩は面目躍如たるものがある。わたくしは、時に春風に吹かれてそれら画面を思い、また月に照らされてさらに彼の心情に思いを致すのである。
 父譲りのヒマラヤ、アジアの旅による取材はよく知られている。父の豪放な、対象をねじ伏せん、征服せんとするようなヒマラヤ風景に対し、彼の神経の行き届いた繊細で静寂な画面は、まさに好対照ではあるが、彼の場合、決して脆弱なものではない。
 それは、画家が素直に、自然から教わるつもりで、自然が作り出した形に学ぼうとしているからであり、一彦のテーマが、不意の眺望に驚いて即興的な感興により雄大な自然を眺めるというものではなく、自然をじっくり見すえて、その風土の大きさと深さを知り、イメージを紡ぎ、山岳や平原また湖沼や河川を鳥轍的に凝視し、そこに内在する生命を的確な筆によって再現しようとしたものであるからであろう。

              (一)
 東洋絵画における風景表現を振り返ると、中国で生まれ、朝鮮や日本など東アジアに拡がった山水画がその中心軸となっている。
 ちなみに中国絵画の起源は漢代である。山岳や河川の自然を描き、そこを仙人や霊獣の住む理想的世界と考える神仙思想に始まり、ついには美景図という迫真的な描写も生まれたが、それらは西洋のランドスケープとは異なって、いわゆる山水画の超俗性、超越的な性格は、今日まで一貫して流れている特質といえる。
 一方、日本では奈良時代の中国絵画に影響を受けた絵画から、平安時代に入ると風景や風俗を日本風に描くやまと絵(大和絵・倭絵)が生まれ、技法的には唐絵に従って山水画を描いていたが、次第に日本人としての特有な感性を感じさせる風景の写生画が生まれ始めた。近世から現代までの日本の風景画には情趣、詩情が溢れる作品が数多く、枚挙に暇がないほどである。
 「雪月花」という古くからの言葉があるように、季節の象徴として雪や月、また花が登場することも多かった。それは、四季の美しい景物を象徴的にいう言葉なのであるが、人間と自然の情景が溶け合った多くの名作を生んでいる。ものごとに対して情緒的・情趣的であることを好む日本人の気質がそこにも表れている。
 江戸時代も中期に入ると西洋画の影響を受けて、実景から受けた感情を直写しようとする風景画、写生的な美景図が、南画と洋風画において見られるようになる。だが総じていえば、日本人は名所絵を別にして、特定の場所を描くことには余り熱心でなかった。

              (二)
 一彦は、昭和48年(1973)初めて渡欧し、その後もイタリ アの街にひかれて何度も足をとどめていた。《トスカーナ》 は、そうした過去の体験の積み重ねより生まれた収穫である。
 昭和49年(1974)、父と一緒に訪れたネパールで見た女性の姿の感動から、幻想性の色渡い《追母影》が生まれた。院展初入選の作品である。一彦の母親の面影を曳きつつ、湖水の中に足を浸しているネパール女性が佇む。彼が選び取ったモティーフは、忘れかねるような佇む一人の女性であった。作家の抑制された筆致の背後からの寂光のように現れてくる色彩効果は見るべきものがあり、藍色の深い湖沼の波紋とその残照は人の心に住むものであった。鋭く豊かな感性で、繊細な美意識をくまなく画面に浸透させ、群青によって無言の詩を響かせている。
そういう意味で《追母影》は、彼の芸術の出発点になった作品である。  《ファラフィン遠雷》(1987)とイタリアに材を取った《トスカーナ》とは、様式的には姉妹作である。前者は、俯瞰構図により、自らの足で実際に歩いたネパール神々の座といわれる田園の景観をイメージし、手前には小さく働く人を描出した森閑とした想像上の風景である。特に空の描写は秀逸で、金彩と緑青により画面全体の空間が整理され、香り豊かな浄土的な風景となっている。
《農耕の民》(1991)は、貧しいけれども素朴な生活に勤しむネパールの農民に寄せる画家の哀惜がよく示されていよう。さらにこの構想はその前方を描く《農耕の民(二)》(1997)へと拡大して6年後に結実する。太古の面影がある曠野には自然への敬虔な祈りが未だ残り、そこに逞しく生きる農民がいる。画面には妥協を許さない厳しい目が注がれて、陰影ある大地の黄土色は、見るものの心を染める思いがするのである。それぞれほぼ正方形の画面の鳥瞰図的な構成は的確で、抑揚ある筆致は、深い印象を残す代表作といえるであろう。《農耕の民(三)》で完結するはずのこの連作は、自然との一体感を獲得しようとする壮大な試みでもある。
 濃密な色調が美しい《月下洗菜》(1992)には、滔々と流れるネパールの悠久の河の流れのなかで働く人が見いだされる。牛一頭がその奥には悠然と草をはんでいる。牛という古くから人間の生活に馴染んだ動物の点描は、彼自身の投影であるかもしれない。画面に月と星が登場しているが、彼の画面の特色は、自然が万華鏡となり、現実と夢が混淆して一体化し、融合して表れるところにある。

《螢》(1992)は、自然の風詠がより顕著になった花鳥画である。蛍のみの、人影のないこの作品は、父の郷里米沢や東京の成城で見た蛍の印象を描いたものである。群青、緑青、金泥により定着された色彩の効果は格別で、群青の闇夜に、動き、光る蛍に想像上の赤い実が添えられている。つづいて《螢(二)》(1996)では、〈星降る海に〉1995年243×486cm再興80回院展面が左側に広がって、群青の濃密な色相が一層広がる。小茂田青樹の花鳥画を豪壮にした雰囲気もあり、メチエにおいて一彦は、父法林以上に挑戦的である。
 《稼懎望郷 陽昇る》(1993)は、川面が見え隠れし、大樹に重なって太陽が昇る瞬間である。農作業に手を染め、故郷を見やる一人の女性の周りのたたずまいは、金彩と朱色の落ち着いた色調である。《月の鏡》(1994)は、一面の群青の世界である。川の流れに楕円の月が落ち、煙々と輝くその日の下、女性が石づたいに川を渡っている。実際にはあり得ない幻想であるが、一幕の劇を見るようである。
 つづいて《星降る海に》(1995)は、波高い海上に金色の満月が煌々と輝いている情景である。その星の数はいくつに上るであろうか。自然の神秘を知らしめる構成である。《星降る海に(二)》(1997)は、半月の空の下、荒涼とした海にはあまた星が降っている。前景に一人の女性が降り立つ幻は、宇宙の神秘をみるような不思議な魅力がある。ここでは月光のもつ清澄さと象徴性の表出に意が用いられ、月夜の夢幻は果てしない。《月華舞う蝶》(1995)、《山河月光》(1996)は、ともに壮大な幻想のショットであり、点景として蝶や牛が効いている。大きな空間のなかで把える一彦の、自然に対しての求道的ともいえるような描写が際立ち、人生の哀歓や風韻がおのずとうかがえる。
 さらに《暮れなずむ空と水面に》(1998)は、イタリアの遺跡や東京三鷹市の井の頭公園の太鼓橋の幻影である。群青という極度に制約された色彩が醸し出す深遠な雰囲気のなかで、一人の女性が静かな湖水にその姿を夕映している。月を見やりつつ、何を思っているのであろうか。
《月の輝く夜に》(1998)は、風景との対話のうちに美を追求する、画家の透徹した眼差しがここでも顕著であり、夜空の深い闇の中にいる一匹の牛が、自然と人生のかかわりの深さを知らしめる。院展での内閣総理大臣賞受賞作である。《月に耀く夜に(二)・(三)》(1999~2000)の連作は、中央の月の下に色彩に絢爛さが加わり、画家の美意識がすみずみまでいきわたり、風格すら漂う幽遠な気に満ちた自然への詠嘆といえよう。

              (三)
 自然を人生と対立した客観的なものと見ずに、自然と人間が同じように生きているものとし、そこに人間の感情がそこはかとなく表れるのをよしとする一彦は、自然との親和が彼の画面の身上となる。そしてそこに彼独自の風景画の緊密な構成が誕生する。
 その構成の特徴には、モティーフと視点の集中があげられ、あれもこれもではなく描く対象を絞って執拗と思われるくらいに同一テーマを深化させて取り組んでいるのである。
また色の使い方は、その風光すべてを色彩から眺めているのではないかと思われるほどで、彼の場合、群青と金泥の処理がキーワードとなろう。歌川広重のヒロシゲ・ブルーがあるように、福王寺一彦ブルーといってもよい深みが加わった群青は、独自のものであるが、それに加えて金泥・金箔の多用が著しい。金泥は「金は無限定の空間を造り出すことを助ける光である」(田中日佐夫著「金の性格」『日本美の構造』)ともいうことができ、色彩に無限性、永遠性を追求すれば、金の多様な使い方に行き着く。
 けれども、それは阿弥陀来迎図などの仏画類を除けば、桃山時代の絢欄豪華な金碧障壁画や池大雅筆「楼閣山水図屏風」(国宝・東京国立博物館蔵)などの例外的な金碧山水画以外にその先例はなかったものであるから、その画面処理が難しく、その美しさは、内省された思惟に裏打ちされて初めて生きてくるものである。
 一彦は、その使い方の困難を克服すべく、時に顔料を50回以上も塗り重ねることもあり、父法林と精神的な靭帯をもちながら、他の画家と比べて、メチエの徹底度は群を抜き、鬼気迫るほどである。
 こうして渋さや幽玄の匂いを秘めつつ、独自性を確立した滋味あるマテイエール(画肌)は輝きを増し、文章でいえば文体にあたるものを獲得している。画面に、印象性・装飾性・感傷性(八代幸雄『日本美術の特質』)がより備わってきたのである。第57回日本芸術院賞(2001年3月)に選ばれたのもこうした彼の画業の新しい展開が評価されてのことであった。
 「風光の人を感動せしむる事、真成る哉」(『去来抄』)という江戸時代の名高い俳人向井去来の言葉があるが、それは、今回の一彦の一連の作品にも当てはまるであろう。充実した描写力と、時には破綻を恐れぬロマンティシズムを有する福王寺一彦は、父法林に日本画の面白さと難しさを学び、メチエや色彩に対するまれに見る鋭敏な資質に恵まれている若く有為な画家である。21世紀を迎えた今日の日本画壇にとって大事な作家の一人であることは間違いない。

きんばら・ひろゆき/茨城県近代美術館企画課長 ( 2002年当時)

2002年 福王寺法林・一彦展 図録より転載

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