福王寺法林は、日本美術院の大先達、横山大観を敬愛してやまない。もちろん、それは大観を導いた岡倉天心への畏敬の念につながり、茨城県近代美術館の分館として、天心記念五浦美術館が開館すると、大作≪白光のヒマラヤ》を「天心先生、大観先生への敬慕のしるし」として寄贈された。院展の重鎮で日本芸術院会員、文化功労者として日本画壇のリーダーの一人である福王寺法林の、日本画の革新のために苦闘した先人たちゆかりの地に建った美術館に自作を納めようという思いには、大観や春草ら初期院展の画家たちが、それまで当時の常識になかった新しい絵を創り出した精神の継承者としての自負があったと私は感じている。大観も春草も、伝統的で型にはまった日本画の殻を破ることによって新しい日本画を生み出した。福王寺法林は、今日において、やはり日本画の概念をはみ出す冒険的で型破りの創造を行っている。そこに時代を超える剛直な、進取の気概が通底するように思えてならない。そういうものいいをするには、福王寺法林の雄大なヒマラヤの連作が頭にある。福王寺法林といえば、ヒマラヤを描く異色の日本画家として有名だが、世界の屋根、神の座ともいわれ、7,000、8,000メートル級の高峰が連なるヒマラヤを、峰を目の高さに置き、山ひだを見下ろして描くという、誰も思いつかない試みを重ねること自体、世界でも例がない。しかもその絵はサイズが巨大で、圧倒的にエネルギッシュで迫力に満ちている。昭和49年以来、ネパール、ヒマラヤに繁々と飛び、ヘリコプターや飛行機で、上ることのできるぎりぎりの高空から山々を鳥撤する取材行を繰り返している。日本画の素材を用い、日本画の技法で描いた絵というだけでなく、人間が対象として取り組んだ最高、最大の自然ということに注目する時、福王寺法林は現代群を抜いてスケールの大きい画家ということができるのではあるまいか。そのヒマラヤの連作だが、遠くに連なる山々の頂きの、広大な宇宙につながる視野の広さと、何千メートルの底をうかがわせる垂直の深さに見事な空間把握がある。まさに、実際に高空に身を置き、深遠な山ひだの実景を確かめた福王寺法林でなければ描けない表現だ。それは空気の稀薄な空中で酸素ボンベを背負い、防寒具に身を包んで氷点下の烈風を受けながら行う生命がけの素早いスケッチを重ね、ヒマラヤの山々の骨をつかみ、精気を感得することによって成されたものである。
しかし、福王寺法林は、見たままの実景を、そのまま描いているのではない。それは、福王寺法林のヒマラヤなのである。豪放に見える画面の陰影、明暗、遠近の微妙な階調の美しさ、ほどのよさは、群青やプラチナ、金を用いた、優れた色彩感覚によって、荘厳な精神世界として紡ぎ出されたものである。それはたしかに絵画であるけれども、ただ広大なヒマラヤの景観を写しとった前人未踏の力わざというだけの次元のものではない。ヒマラヤという、ふつうでは思いも及ばないモティーフに取り組んだそのスケールの大きさに目を奪われて、キッチュな、鬼面人を驚かすしわのように見るむきもないとはいわないが、それは福王寺法林の芸術を見あやまっている。大観、春草の朦朧体もそうだったように、時代の常識にないものを創り出した時、芸術家は必ずしも世に容れられることはない。しかし、福王寺法林のヒマラヤは、自身の全精神、全能力でヒマラヤの山気を吸収して、かつてない絵画を描くところに、その真価があると私は思うのである。過日、福王寺法林とある対談をした折り、私は根掘り葉掘りいろんなことをたずねた。ふだんはあまり自分のことを語らないこの画家が、そこで興味深い話を聞かせてくれた。その一端に、なぜヒマラヤを描くかということがある。
福王寺法林は、小学校3年生の時、先生に、世界一の山はエベレストだと教わった。その時から、すでに画家を志していた福王寺少年は、その世界一の山を描く夢を抱いた。年を経て昭和49年、ネパールに旅して、麓からヒマラヤを描いた大作≪ヒマラヤ≫を第59回院展に出品する。たまたま当時、ネパール国王が来日されるのに合わせて、ヒマラヤを紹介する展覧会がデパートで開かれ、その作品も乞われて出品した。それを見た国王が大変喜ばれたので、福王寺法林は作品を国王に献呈したのだが、この時、国王のヘリコプターを借りて、高空からヒマラヤを描きたいと願い出、快諾を得た。さっそくネパールに行き、国王のヘリコプターを借りたが、操縦士は慎重な安全飛行で、飛んでほしいところに飛ばず、降りてほしいところに降りてくれない。これでは絵が描けないからと、軍のヘリコフり-に替えてもらった。