旧知の福王寺法林さんの初期から近年までの自選代表作をあつめた「福王寺法林展」が開催の運びとなった。ひさしくその仕事を見せてもらって来た私どもとしては、この機会にその真姿を再認識できるのが何よりの楽しみである。おそらく、もう一度じっくりと鑑賞することによって、福王寺法林という貴重な男性的作家の芸業が改めて目をひくことになるであろう。
福王寺法林といえば、今日ではヒマラヤの画家として通っている。地球の始原とかかわるような世界最高の山嶺ヒマラヤの大自然を追って作者は、この20年近くの歳月、ひたすら画心を燃焼させている。「わしがやらねば誰がやる、今やらねばいつできる」と記したのは平櫛田中翁であったが、この言葉が好きな福王寺さんにとって、ヒマラヤは、まさに自分がやらねば誰がやるの絶好の対象であったろう。
昭和48年まで台湾など南方地帯の取材をつづけていた作者は、49年にネパール・ヒマラヤの取材をしたのがきっかけとなって以後はヒマラヤとの取り組みが深まり、次第にヘリコプターなどをつかった徹底した命がけの作業に進んでいった。「あそこは神の座、世界の屋根だから、その凄い世界から絵を生みたい、大自然に体あたりして必死の覚悟で仕事をしたい」とヒマラヤ挑戦はすでに20年近く続いている。その間には日本芸術院賞に推された第68回院展出品作の「ヒマラヤの花」をはじめ、人々の印象に残る数々の大作が続々と描かれたことは周知であろう。植村鷹千代氏との対談で、作者はきっぱりと語っている。
「写真では描きようがないです。参考にはなるかもしれないが、それは自然から離れているんだから。以前は、自分からヒマラヤに向かって挑戦していたけれど、今は自分がヒマラヤだと思って絵にぶつかっているんです。」

 この言葉は鮮烈である。日本画とは本来そういう自分が対象になりきるものであり、そうあるべきであろう。ただそうなるためには、捨身の奮闘と研究がなければならぬことは当然である。作者の場合、若いときの惨憺たる苦学、中支戦線での筆舌に尽くせない艱難辛苦。それらを乗り越えて、いささかも怯むところのない画道精進の気力とファイトは福王寺さんの天与の資質である。ヒマラヤの絵はまさにそうした資質がおのずからに求めて昇りつめたところと見てよかろう。
ところで、私が福王寺法林さんを最初に知ったのは、昭和30年頃のことであった。昭和27年に国立近代美術館が創立され、当時その実質的運営に当たったのが次長の今泉篤男さんであったが、私は氏を助ける課長の役目で、いろいろな局面で今泉さんと行動を共にした。その今泉さんが同じ米沢出身の福王寺法林さんの指導にも当たっていたところから、いつとはなく氏の院展出品画にも注意を払うようになった。「朝」とか「かりん」とかが秀作展に選ばれ、「落葉」「岩の石仏」「北の海」といった力作が出て来た頃のことである。作者が30代から40代に入ろうかという時で、新世代のホープとして抬頭しかけた時期といってよい。間もなく院の同人にもあげられ、「石仏」や「島灯」を出し、やがて印象にのこる「万博夜景」や、内閣総理大臣賞を受けた「山腹の石仏」などがつづいた。そのあとに出た高砂族取材の作なども悪くなかったが、そこらから、ライフワークといってよいヒマラヤのシリーズが始まったわけである。このシリーズの10年目頃に当たる「ヒマラヤの花」が描かれた翌年の正月、師と仰いだ今泉篤男さんが逝去、その同じ昭和59年に作者が日本芸術院賞を受けたのは何かの因縁といえるかもしれない。
さて、福王寺法林の芸術いかんということになるが、私はその点で今泉さんの指摘はさすがに的を射ていたと見ている。その要点は二つあり、第一点は法林の芸術は男っぽいということである。これは大自然へのひたむきの傾倒がついにヒマラヤに結集した迫力の中にも表われているが、又そのことはヒマラヤ・シリーズ自体の風格、ことに月や残照や花などのいわば優しい風趣の扱いかたの中にも自然に渉んでいるようである。そういう点に関して今泉さんは次のように書いている。

「私がひそかに興深くみていることは、福王寺法林の描く人物は、いづれも文明の塵や脂粉にまみれた女たちではない。いわゆる未開の文明の中に今尚身を置いている女たちである。そういう題材にたいする好みにも、この画家の風景の題材に対する選択と同様な、剛毅な男性的な作情を私は感じる。しかも、それらの絵には、女性的でない男性だけの持つ独特の優しさが絵の裏に脈々と流れているのである。」
 蓋し適評で、万事が女性的な好みに流れやすい現代にあって法林画の独自さがあざやかに目に浮かぶ感じであろう。
 次の第二点は、法林画のトーンの美しさ、調子のみごとさという点である。それは初期の「朝」などの何でもない題材の絵から、「落葉」や「石仏」や「島灯」、さらに難しい「万博夜景」のようなものにもうかがわれるが、ヒマラヤ・シリーズのような大作の場合、あの広大な景観を微妙な調子にまとめあげる力量には天与のみごとさがあるというべきである。
 この点に関して、今泉さんは次のように補足している。「福王寺法林の生家は米沢で、上杉藩の槍術師範の家系だったから、法林自身も居合抜きの名手である。その他、空手も熟達しているらしい。子供の時、父親に連れられて山に猟に行き、父親が誤って銃を暴発させ、息子の雄一(彼の本名)は片眼を失明した。画家を志す少年が片眼を失うということがどんなに大きな打撃であったか。しかも雄一少年は不屈の意志でその不幸を克服した。私が福王寺法林その人を識る以前に、山形の県展に出品されたその作品を見たのがこの画家の名前を知った最初だったが、その折私が彼の作品に注目したのは、日本画家には珍しくその画面を覆っている敏感な調子のあることだった。もちろん、私はその時、この画家が隻眼の画家であることなど少しも知らなかった。両眼の満足な画家でさえ、日本画家の多くが距離感や調子に比較的破綻を示しているのに、この隻眼の人はこのような見事な調子をもった風景画を描くのである。」

 そういう見事な調子をもった風景画の作例を、今回の展示で多くの方々が検証できることは好機といわなければならない。
 これは私のひそかな観測であるが、法林画における調子のみごとさ、その微妙な把握が生まれる根拠は、おそらくは単なる眼による把握の問題を越えているであろう。むしろ身体的な把握、いってよければ、武芸に通じるような痛切な気合と呼吸の受けとめ方に真因があるのではないか、他分そうした身体的感受の厳しい微妙さが本当の根拠に違いないと私は想察している。つまり、全身体をかけた福王寺芸術の痛切な所産というわけである。もしそうならば、この作者の仕事は、ともすれば身体性を失いがちな現代芸術の中にあって余程ユニークな生命的な強靭さを内蔵するものといわなければならない。そして、このような全身体をかけて進む仕事がやがて武芸の場合と同様、そのまま端的な精神のつよさとつながるのはいうまでもないことである。
 かつて吉村貞司氏が、法林画のヒマラヤ・シリーズを評して、
「かれはただリアリスチックに表現しているのではない。精神が感じとった色彩の意味の深さを追求して、自ら精神に至ろうとしている。見る人はこれを常識の次元に翻訳して、神のない、ただ色彩として見るにすぎない。それは福王寺法林が生命をかけ、不可能の世界に挑んで到達しようとしている内容からいえば、ほんの一部分、むしろ外形だけ、色彩だけを見るにすぎない」と嘆じたことがあった。私もこの見方に賛成である。そして吉村氏とともに、「福王寺法林が、現在の画家の中で、もっともスケールが大きく、男性的であるために、かえって卑小化されてしか見られず、真価をほとんど理解されないのを残念に思う」と、作者のために弁護したい気持である。
 つけ加えるが、福王寺法林さんが、横山大観芸術の敬仰者であることは知られているし、さもありなむというべきである。周知のように大観先生には富士の名画がたくさんあり、「富士心神」という鮮明な理想が通っていた。「私がヒマラヤだ」という法林芸術も、ついには「ヒマラヤ心神」というようなところに昇華していくというべきであろうか。今回の展覧会を区切りにさらなる健闘を期待すること切である。
            (平成3年 福王寺法林展 図録より転載)